銀の風

三章・浮かび上がる影・交差する糸
―35話・慈悲の使い―



セシルを始めとするバロン城の人々や、町の医者達の尽力をあざ笑うかのように、
下級の悪霊たちが引き起こした『疫病』は広がっていった。
それが流行してからというもの、
まるで死んだように活気を失ったバロンの町。
昼でさえもほとんど人通りの無くなっているのだ。
まして夜ともなれば、町はまるで廃墟のような影を帯びる。
商売どころではないらしく、酒場も店を閉めたままだ。
しかし、こんな時に大通りを歩く一人の女性が居た。
「なんとひどい……こんなに穢れてしまって……。」
女性の外見は20代前半くらいだろうか。
青緑と水色を基調とした肩が出る細身のドレスに身を包み、
まるで豊かな海のような長く青い髪を、右側でツイスト状にして前にたらしている。
そして彼女がまとう空気は上品さと清浄な力と生命力に満ちており、
その姿を見れば、誰もが天の使いと思うだろう。
憂いに満ちたその横顔さえもが美しかった。


やがて女性は、町の中央にある広場にたどり着いた。
そして、ここが目的地だったらしくそこで足を止める。
すると女性の右手に一本の美しい曲刀が現れた。
「穢れし力よ、失せなさい。」
その一言とともに、宙に向かって剣を振るう。
何も無い場所を切っただけなのに、その振る舞いはまるで踊っているかのようだ。
だが、彼女は何も無い場所を「切った」わけではなかった。
見る見るうちに、町を覆いつくしていた邪悪な気配が消え去っていく。
そう、彼女が切ったのは邪悪な力そのものだったのだ。
「……これで、いいでしょう。」
剣を握ったまま、女性がふうっと軽く息をつく。
町に穏やかな気配が戻ってきたことを見届けて、彼女は淡い光に包まれて消えた。
と、その光景を建物の中で見ていた人々が居た。
急に苦しみや心身の変調から解放され、驚き戸惑いながらも人々は喜びを分かち合う。
そんな彼らの目線は、剣を振るい、邪悪な気配をはらった女性に向けられていた。
たとえ魔法的な才能がない一般人にも、一目で分かる生命力と清浄な力。
その美しい姿と力は、それだけで畏怖の念を集めるには十分だった。
「女神様だ……。」
「女神様……?」
小さな女の子が、先程まで寝ていたベッドから降りて、
他の大人たちに混じって窓辺に駆け寄った。
小さな彼女の背丈では外を見ることが出来ないので、
どうして大人たちがそんなに騒ぐのか分からないでいるようだ。
しかし、『女神様』と喜び興奮している大人たちは、彼女の疑問を聞いていない。
「そうさ、あれは女神様さ。そうに違いないよ……!」
上気したふうな声で、恰幅のいいおばさんがそういった。
女の子が怪訝そうな目で見ているが、そんなことも気にならないらしい。
先程までの苦しみと恐怖の代わりに、一般の人々の心を占めるもの。
それは、たった一振りの剣で病を消し去った女性に対する、
神への畏怖にも似た尊敬の念だ。
そして広場から去った当の女性は、意外な場所に現れていた。


堅い静寂に閉ざされた、夜のバロン城。
煌々と燃えるたいまつやランプの光だけが、弱々しく暗い廊下を照らしている。
室内にともる明かりは平時よりも多く、
普段は通いで勤める者も城に残っていることが窺えた。
夜も遅いためか、町と同様にしんと静まり返り、
時々浮かない兵士達の声がわずかに漏れてくるだけだ。


急に室内に現れた気配を感じ、
セシルは飛び起きてベッドの脇においてあった剣をつかんだ。
「何者だ!」
寝起きとはとても思えない、セシルの鋭い声が部屋に響く。
その声に驚き、隣で寝ていたローザも驚いて目を覚ました。
だが、セシルに怒鳴られた当人は、まったく動じていないようだ。
明鏡止水。そんな言葉が似つかわしいほどに。
「驚かせてしまいましたね。
あなたが、この国の王でしょうか?」
「?ああ、そうだ……。」
物腰穏やかで優美なその声に、セシルは毒気を抜かれてそう答えた。
一見したところ武器は持っておらず、敵意もまったく見られない。
いきなり怒鳴りつけた気まずさと、
一体どうしてここにという疑問がセシルの中に生まれた。
「悪しき者が、人間に害をなしていたようですね。
民の苦しみが、大地の嘆きがわたくしの耳にも届きました。」
「あなたは、一体……?」
ローザは、まるで夢から覚めきっていないような声で、そうたずねた。
「わたくしは……忘却の川の落とし子。
大地の痛みと穢れを取り除くのが、わたくしの役目。
この地に渦巻く負の力を感じ、それを祓(はら)いに訪れました。
けれど、このような被害は恐らく序の口でしょう。
いずれ、わたくしと対を成すものが目覚めるはずです。
どうかお気をつけて。」
「待ってください!あなたは―――。」
セシルは素早くベッドから降りて、背を向けて帰ろうとする彼女を呼び止めようとした。
しかし彼女の姿は、その前に淡い光に包まれて消えてしまう。
「人の子よ……わたくしは、生けるもの全てのためにあります。
運命の導きがあれば、またいずれ会うでしょう。」
慈悲にあふれたその言葉だけがセシルとローザの耳に届き、
後には夜の静寂だけが残された。


―翌日・昼―
その報告は、まさに寝耳に水としか言いようがなかった。
いや、むしろ青天の霹靂か。ともかく、驚きを表すありとあらゆる言葉を全て並べても足りない。
会議の席に着いている大臣達も、どこか浮き足立っているように見受けられる。
それも当然で。
「陛下……こたびの事は、まことであられますか?!」
「一片の偽りもない真実です。
財務大臣……あまたは、現場のドラゴン達の報告を疑っていらっしゃるのですか?
もちろん、にわかには信じられない気持ちも良く分かります。
しかし、これは事実だ。」
セシルは毅然とした態度で言い切ったが、
信じられないのはこちらも同じだと目を伏せる。
昨夜、部屋に現れた美しい青い髪の女性。
今朝、町で病人の看護等に当たっていた竜達から上がってきた報告によれば、
彼女はセシルの前だけではなく、街中に現れていたという。
その様子は多くの人々が目撃しており、誰かの狂言という方が無理だ。
もっとも、狂言の方がどんなに信憑性があるかというのが、
この場に居合わせたものの大半に共通する意識だったが。
「まことに喜ばしいことですが……なんともご都合的ですな。」
「確かに。戦の最中にディルス様の御声が聞こえるようなものだ。」
将軍が、隣にいた大臣の言葉に相槌を打つ。
ディルスはバロンで信仰されている戦の神で、
邪神でありながら戦士をはじめ一般の人々にも広く人気を集めている。
無論、この国が軍事国家と呼ばれている背景と無関係ではない。
「しかし、多くの者がその姿を見たといいますしな。
怪しげな力を使い……もしや自作自演では?」
「な……そうだとすれば、許されざる大罪ですぞ!!」
「まあまあ、その話は後になさいましょう。
本日話し合わなければいけない議題はごまんとあるのですぞ?」
宰相のその一言で、青い髪の女性をめぐる議論は終結した。
どうせ話し合ったところで結論が出るはずもないのだ。
賢い判断である。


会議は、予定より30分ほど延長して終了した。
セシルが退室し、宰相やその他側近や一部の大臣も退室していった。
退室しなかったほとんどの大臣達は、しばらく様子でも見るように静かだったが、
やがて声を潜めて話し出す。
(……行かれたようですな。)
(左様ですな。)
誰も外に居ないことを確認するや否や、
にわかに部屋が小さなささやき声であふれかえる。
(まったく、現陛下にはほとほと困りますな。)
(即位してまだ半年ほどだというのに、こうも治世が乱れるとは。
早くお世継ぎをもうけていただき、
早々に退位されたほうがよろしいような気もいたしますなあ。)
(いや、それは得策ではございませんぞ。
『あれでも』下々の者や雑兵どもには絶大な人気を誇りますからねぇ。
それに、ハイウインドとファレルという大貴族の一族がついているのですから……。)
(確かに……。)
いかめしい顔をさらにしかめて、年老いた大臣の1人が腕を組んだ。
バロンにおいて、竜騎士の名門中の名門であるハイウインド家と、
同じく騎士として名門の家系であるファレル家。
どちらも大貴族として名を馳せる大きな一族であり、
貴族・政治の世界ではその影響力は計り知れない。
(まったく、どこの馬の骨とも知れぬ輩の分際で……。)
(土台だけはしっかり固めおって。まったく、忌々しい男よ。)
大貴族に取り入り、味方につけることは大臣達でも苦労することだ。
それをセシルは、友人や妻と言う形で図らずとも味方につけた。
バロン500年の歴史において、
先王の養子とはいえどこの馬の骨とも知れぬ男が王位を継ぎ、
あまつさえ大貴族を味方につけた例はない。
そのため、主に大臣以下上層部からやっかみを含んだ声は絶えず、
この場に残った大臣達のようによからぬ話をするものも多い。
だがセシル本人は誠実で責任感もあり、
何より弱い立場にある者へ向けられる優しさは、
庶民や下級の兵達からの絶大な人気を集めている。
偽の先王の敷いた恐怖政治まがいの体制から生まれた政治不信も、
彼のおかげでどこかへ吹き飛んだ。
もちろん、どんなに彼を嫌っている者でもそれは認めざるを得ない事実だ。
民衆一人ひとりの力は、権力と富を持つ者から見ればあまりにも小さい。
しかしそれらが一点に集まり、各地で反旗を翻されれば別だ。
うっかり波に乗ってしまえば、そのまま国がひっくり返ることだってある。
(……やはりしばらくは、何も出来そうにありませぬなぁ。)
(何を弱気なことを!
国益を損なわない程度に出来ることは、考えればいくらでもありますぞ!)
こんな者ばかりが国政を担っているのかと、
良識ある者ならさぞ嘆くだろう。
事実、セシルの政治体制が磐石とはとてもいえない理由の半分ほどは、
血筋と家柄ばかりを重んじる彼らのせいであった。
いくらファレル家とハイウインド家がついているとは言っても、
実際に手足となる大臣達がこれでは先が思いやられる。
バロンの未来は、暗雲が立ち込めているといっても過言ではない。
しかし、彼らの悪巧みや腹のうちなど、
政務におけるセシルの最大の協力者である宰相には筒抜けである。
それを分かっていない者が多いのもまた、この国の大臣達の小物ぶりを示しているのだが。


― 一方その頃―

「まったく、皆様の態度は困ったものですなぁ、陛下。」
「そうですね……シーザス殿。」
ここはセシルとローザの私室ではなく、王の執務室。
セシルとローザ、そしてカインと話をしている老人は、
前王から名宰相としてこの国を支え続けてきた大臣の長・シーザス=ハインリヒ=ベルトラン。
れっきとした大貴族・ベルトラン家の出身だ。
この家はバロンでは珍しく騎士などの武芸を得意としているわけではなく、
代々優秀な文官系の人間を多く輩出している。
いわゆるインテリの家系ということだ。
「昔はもっと、先の事を考えて下さる方たちがいらっしゃったのに……。」
ローザがそう言って肩を落とす。
「まぁ……前陛下、いや偽王の治世でずいぶんと粛清が横行しましたからのぉ。
今残っているのは、偽王にこびへつらっていただけの……。
言ってみれば役立たずの腰抜け共が大半を占めますからの。」
シーザスはそう言って好々爺のように笑ったが、
もちろん彼も笑い事ですまないことは知っている。
そしてその笑いも、好々爺然としていながら目は笑っていない。
「本当に……こういっては何ですが、どうしようもない方が多すぎますね。」
宰相がいる手前、カインは丁寧にそう述べたが、言っていることはなかなか手厳しい。
―兄さんの前ではいえないけど……。
操られていたとはいえ、
恐らくバロンの官僚を骨抜きにしてしまったのはゴルベーザの指示なのだ。
聡明な彼のことだから知らないはずはないが、それでも本人の前では言いたくない。
当時は不可抗力だと分かっていても、彼は気にしているだろう。
もっともそれを言うなら、実際に偽者として君臨していたカイナッツオこそ、
どうなのかと言う気もするが。
「まあ、もう幾人か有望な若手や中堅どころは見つけましたからの。
これを機に、わしも含めてリフレッシュを図りたいところですが……ま、ゆっくりとですな。」
「『わしも含めて』って……宰相閣下にはまだまだ頑張って頂かなければ、
セシ……陛下が途方にくれますよ?」
「おや、冗談にしてはきつかったですかな?」
「ええ……まあ。」
「もう、セシル!困るなら困るってはっきり言わないと。」
「ろ、ローザ……。」
これではどっちが王か分かったものではない。
公の場ではないからいいが、
こんなところを会議にいた他の大臣達に見られたら、セシル叩きの格好の餌食だ。
「王妃に一喝されるとはなんと未熟な。」とか、
「妻1人御しきれぬようでは国を御すなど片腹痛い。」などという嘲笑が聞こえてきそうだ。
人払いも済んでいるし、今はいないのだからまだいいのだが。
「まあ、まだまだ年寄りが見張っていないと、
小賢しい子悪党共が何をしでかすか分かりませんからな。
しばらくは居座るつもりですゆえ、陛下はご安心なさって結構ですぞ。」
「ははは……当分その調子でお願いします。」
セシルは苦笑いしてそう返すしかない。
何しろ偽王の粛清からすら逃れた海千山千のシーザスには、
若輩者は振り回されるばかりである。
「まったく、彼らがもう少し何が国のためかを考えれば、
陛下も妃殿下もご苦労をなさらずに済むのですが。」
――村の畑を荒らすのは、山からやってくる猪やガトリンガばかりじゃないのよ。
不意に、ローザの脳裏に妖艶な女神の声が甦る。
まったく、その通りだった。
神は全てお見通しだと聖職者達が説くも、あながち間違いではないかもしれない。
その力を使えば、あるいは世界を襲う災厄の正体もつかめるのだろう。
ただ、神話や神殿の教典にもあるとおり、
神というものは人間の世界には不干渉を原則とする。力を貸してはくれないだろう。
だが、今はそれらを考えるべき時ではない。
いつになったら、城内は一つにまとまるのだろう。
まったく進歩も変化もない大臣達に、セシルとローザもあせりと苛立ちは募る一方である。



―前へ―  ―次へ―   ―戻る―
 
……よくよく考えれば、ひそひ草さえあれば各国との連絡簡単に取れるんですよね。
前回あんなしち面倒くさいことをしなくても良かった気が。(爆
ひそひ草って、ほとんど生きてる電話ですよね。
つーかリアルにかいてて言うのもなんですが、腹立つなーバロンの大臣連中。
この役立たず連中は、遠からずセシルの足を引っ張るでしょう。哀れセシル。